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平政の守山教会ニュース
森のうた(2007年)
カトリック守山教会 建物正面向かって左側から撮影(2008年12月撮影)
わがこころ喜びに 典礼聖歌167番
詩編63・2 3+4 5+6 7+8 9+12a 信頼 希望 感謝 年間12C 22A 32A
神学生だった頃、高円寺教会で初めて助祭の奉仕をした時、
「答唱はこの曲にして下さい」とお願いしたのがこの聖歌でした。
■ No.45 2007年11・12月号 |
祝 日本一おめでとう 中日ドラゴンズ
この文は11月7日に書いています。毎回遅れています。でも今回はその事で中日ドラゴンズの日本一を報告できます。落合監督はリーグ2位、クライマックスシリーズで勝ち上がりの日本一、来年はリーグ優勝そして日本一を目指したいと言っていました。来年がまた楽しみです。 10月26日劇団四季の「アイーダ」を見に行きました。ミュージカルです。そのような観劇は初めてです。前の教会でのお勤めのミサは午後7時から8時でしたので諦めていました。新聞でオペラの演目の宣伝を見ながら、いつかは行きたいと思っていましたが、これまで叶いませんでした。しかし今回分かったことは、ミュージカルとオペラは違うということでした。僕はビデオで見たオペラの「アイーダ」の方が好みです。今度機会があったならばオペラの「アイーダ」を見に行きたいと思いました。でも単にオペラが好きだという事かも。 教会の話。11月は「死者の月」と言い、特別に死者のために祈る習慣があります。11月2日は「死者の日」としてすべての死者を記念してミサを捧げます。11月1日は「諸聖人の祭日」を祝います。前の日がハローイン。教会の暦の流れの中で「教会はすべての死者がキリストの死と復活に・・結ばれており、・・信仰によって結ばれた一致の絆は死によっても裂かれることはない」と宣言します。 『カトリック教会のカテキズム』No.27 「マリアについての教会の教え」はカテキズムNo963~972にまとめられています。今回は「被昇天のマリア」について考えます。 教会のマリアについての教えは「マリアの生と死」に関わりがあります。 生については先に習った「無原罪の宿り」。 死については今回の「被昇天のマリア」です。 これはピオ12世の教皇令「ムニフィチェンチィッシムス・デイ」(1950年11月1)で公に宣言されました。その内容はNo966「(マリアは)地上生活の道程を終えて、肉体と霊魂ともども天の栄光に引き上げられ、そして主から、すべてのものの女王として高められました」と言うものです。 エリザベトはマリアの訪問を受けた時、聖霊に満たされて「あなたは女のうちで祝福されたかた」と言いました。教会もマリアの中に教会自身の姿を重ね、この世の旅路を歩いていと宣言します。 |
■ 2007年9・10月 号外 |
「小笠原村」しまあじ釣りと赤耳亀釣り 日曜学校の寝泊り会の時、土曜日から日曜日ですが、土曜日には原則午後3時集合です。これが中々難しいのです。それで遊びにして近くの池に行き釣りをする、遅れてくる子も釣りをしている場所に来るというのがありました。 それはさておき、子供たちの事ではなく僕の事。 釣りもいいかなと思いました。 その池にはいつも年輩リタイアの20人くらいの釣り人がいます。平日ですが。休日になると若者がルワー釣りを楽しんでいます。 幼稚園の休日土曜日に釣りに行きました。 日曜学校の時とは違いひとつの試みがありました。ここでの釣り魚は、鯉、フナ、ライギョのようです。僕の目的は「赤耳亀」を釣ること。 先の人たちはたまにかかって来るその亀に迷惑といっていました。 小笠原村での岸壁からのしまあじ釣りは名誉の闘いのようでした。いかに細い糸で釣り上げるかの競争でした。時間は関係ありませんでした。 口元の弱いしまあじを釣り上げるには忍耐が必要です。でももう良いかと言ってまいたリールの糸は切れます。「まだまだ」の気持ちを持続させてようやく目の前にしまあじの魚影が見えてきます。 同じ事をしています。 細い糸の釣り針に直径小指ほどのソウセイジの長さ1センチ位の物をかけて池に投げます。時間が過ぎて、浮きが沈み、手元の釣りさおの先がぐーと曲がりその竿は右手、左手に何とかしろとの指令を出して来ますが、あせりません。 糸を緩めて僕は遊び始めました。強い引きです。また緩めます。そしてちょっと巻き上げます。 赤耳亀さんとの20分ほどの戦いでしたが僕の勝ちでした。携帯カメラにゲット。 |
■ No.44 2007年9・10月号 |
韓国に行きました 8月19日から8月22日にかけて韓国に行きました。僕は20年前(1987)に一度行っています。名古屋教区司祭の黙想会が韓国ウォンジュ(原州)教区内にある「ペエロン(船論)殉教者の家」でありました。ソウルの東、120キロくらいのところにあります。その時の印象は山に木がないなあと言う事、背の低い木の間から乾燥した地肌が見えていました。今回はそれが違っていて、山々は緑の松、その他の雑木の塊で森を造っていました。守山教会の住所、「翠松園」を思い起こしました。
今回の韓国行きは李さんのご招待です。行きは高畑さんご夫婦、深澤さんご夫婦と僕、李さん6人、帰りはそれに李さんの奥さんと子供2人を加えて9人でした。(写真左:明洞聖堂の前にて撮影) 寝泊りは李さんの韓国での事務所兼別荘兼インチョン教区(国際空港のあるところ)司祭のお兄さんの祈りの家といったところかなあと思いました。そのお兄さんのお陰で全行程の車での移動は若者2人が手伝ってくれ、準備片付けに、もう2人の若者が世話をしてくれました。 20日はソウル市内見学。切頭山、ミョンドン教会(ソウル教区のカテドラル)など。夜は李さんの友達の崔さん宅でのバーベキューと奥さんの韓国料理を頂き夜もふけました。 21日は寝泊りした島の隣の小さな島までカモメに先導され渡り古刹のお寺を見学、また島の郷土料理を楽しみ、馬にも乗りました。
『カトリック教会のカテキズム』No.26 「マリアについての教会の教え」を考えています。今回は「おとめマリア」について考えます。 No.496に「教会は、信条作成の当初から、イエスが聖霊の力のみによっておとめマリアの胎内に宿られたと公言」し断言しています。No.497「福音書の物語は処女受胎を、人間のあらゆる理解、能力を超える神のわざとして受け取っています。」(ルカ1:34『そこで、マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」』) このマリア様の言葉は、マリア様ご自身も自分の身に起きる事柄を充分理解されていない、と受け取ってもいいと思います。しかし、No.494で『「信仰の従順」によって、「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」と答えました。』(ルカ1:37-38)と聖書の言葉をもって強調します。 |
■ 2007年7・8月 号外 |
「たまねぎソーメン」について 「曽野綾子」著「砂漠・この神の土地」朝日新聞社「朝日文庫」1988年2月20日発行の本に「玉葱」についての話があります。その本の当該箇所を下に引用しました。 「1983年十月末から十二月上旬にかけて、私はサハラ砂漠の旅に出た。」、「出発地はパリ、目的地は象牙海岸国(コート・ディ・ボォワール)・・走行距離は約八千キロであった。」 「玉葱もアルジェにないわけでもないと思っていたが、それも、何かの理由で買えないことを考えて私たちは(マルセイユで)買うことにした。「スフィンクス」(この人はこの本の中でそう書かれていますが考古学者、吉村作治氏)は玉葱に関して信仰に近いものを持っていた。新鮮な野菜のないところでも、玉葱さえあれば健康は保てると「彼は」言い、事実彼は、食事の度に、誰かがさぼっていようと、献立がなんであろうと、まず率先して玉葱を刻んだ。私たちが栄養状態も極めてよく旅を終えられたのは、もしかすると、この玉葱に負うところも大きかったかもしれない。」 たまねぎの効能でしたが、ここは日本ですから、何とも。 この本の旅の中に「シャルル・ド・フーコ神父」の話もあります。彼の後継者が創った修道会「イエスの小さい兄弟会」は名古屋教区にもあります。 |
■ No.43 2007年7・8月号 |
たまねぎソーメン 紫陽花の季節を迎えています。教会の庭にも三株の紫陽花があり咲きましたが、花房は数えるほどです。30センチ位の花苗を植えて3年目です。でも花の大きさは一人前です。
東京教区に西川神父さんと言う人がいます。 彼は、僕の事を人に紹介する時いつも、「同級生の神父です」と言います。しかし司祭叙階は僕より5年も早いのです。歳も9つ上です。彼の言う同級生の根拠は、哲学を始める神学校に入学したのが同じ年であると言う事です。でもいつもありがたく、恐縮します。 その彼の妹さんが5月13日癌で亡くなられ、その葬儀ミサに出るために東京へ行きました。妹さんの事も良く知っていました。実家は広島ですが、病気療養は東京でした。1年と4ヶ月程の抗癌剤治療での厳しい闘病生活の末でした。 西川神父さんはその事を「旅先での出来事」と表現されています。 西川神父さんの司牧教会での話です。 信者さんたちが午前から午後にかかる仕事がある場合、どうしてもお昼は教会でとなります。その時神父さんが作り共に皆さんと頂くのが、「たまねぎソーメン」だそうです。季節によってはスパゲッティになるそうですが、彼のレシピに従って僕も作ってみました。 そうめんの上に、薄く千切りにした玉ねぎを山盛りにのせ、麺つゆを適量に入れて頂きます。それが結構おいしく頂けました。 皆さんも試してみてください。 『カトリック教会のカテキズム』No.25 「マリアについての教会の教え」を考えています。 No.491に「マリアがその母の胎内に懐妊された瞬間からあがなわれていた」と言って1854年に教皇ピオ9世によってマリアの「無原罪の宿り」が宣言されました。「マリアはその懐胎の最初の瞬間において、原罪のすべての汚れから、前もって保護されていました」(ピオ9世勅書インエッファビリス・デウス)と説明しています。 No.493では東方教会の教父たちは「聖霊によって造られ、新しい被造物に形成された者、あらゆる罪の汚れを免れた者」として祝いました。この事の意味は「神の恵みにより、マリアはその生涯にわたって自分で罪を犯すことはまったくありませんでした」と言うことの宣言でありましたと説明しています。 天使ガブリエルのマリアへのお告げの言葉「恵まれたかた」との挨拶を思い起します。 |
■ No.42 2007年5・6月号 |
山笑う 俳句で 「山笑う」 という季語があるそうです。 守山教会の庭の木々や小幡緑地公園の森では新たに芽吹いた若葉が色の違う表と裏を見せながら春風に揺れています。その「笑顔」は毎日違うし、また緑が一日一日濃くなっていくのが分かります。昨年亡くなられた山田券さんが植樹された教会の母子像を飾るつるバラも、小さな黄色い花をたくさん咲かせています。
5月は聖母月「マリア様」の月です。ロザリオ、白百合、バラなどを連想します。主税町教会在任中、平日午後7時からミサその後ロザリオ一環唱えていましたが、今は時々就寝時にカセットテープでロザリオの祈りを流し、何時の間にか寝入っていると言う始末です。5月は特に意識してロザリオを祈る時間を創りたいと思います。
また、今年5月27日は「聖霊降臨」の祭日、この日で復活節が終わります。「四旬節」から「復活節」までの自分の信仰生活を振り返り、その実がこれからの年間の暦に生かせたらと思います。 聖母幼稚園ではたくさんのチューリップの花が咲いています。昨年先生と園児たちが植えた球根です。
でも今年はなんだか寂しそうです。見てくれる園児たちが居ないのです。それは幼稚園が4月1日から休園になったからです。
僕は残務整理という事で今まで通り朝から出かけます。 『カトリック教会のカテキズム』No.24 今回から「マリアについての教会の教え」を考えます。 先回その事は「キリストへの教会の信仰を解明して行きます」と習いました。マリアが宿した子は「御父の永遠の御子、聖三位の第二のペルソナです」。(No.495)教会は第二回公会議、431年のエフェゾ公会議で「イエスの母マリアは『神の母』」と公に宣言しました。この会議の重要な議題は「キリストの神性と人性の関係をめぐって」でした。 この議題の議論の中からマリアは『神の母』との言葉が深まり、宣言によりマリアの公の称号となりました。前に「しかし導き手はいつも「聖書」にありました」と書きましたが、今回もそうでした。パウロの書簡また福音書ではマリアを「イエスの母」と言っています。ヨハネ福音書では2・1、19・25に出てきます。イエス・キリストは神であり、その母マリアは『神の母』。 |
■ No.41 2007年3・4月号 |
カラスのはなし 「暖冬」と言われている今年の冬もそろそろ終わりに近づき、本当にそうだなと実感する日々が続いています。スキー場に雪がなく、ゴルフ場でも雪が積もっていないのでプレー出来ると、そんなニュースが流れていました。 僕の買い替えた車は左ハンドル。しかもマニュアルなので、なれない運転に雪道となったら、と心配していましたが無用でした。
教会の暦は御復活(4月8日)をむかえる準備の期間、四旬節にはいりました。悔い改めと節制と愛の行為に励むように教会は教えます。この事を心に留め、日々を過ごしていけるようにしたいと思います。 最近カラスについての本を二冊読みました。以前、ホームページの方にカラスについて書きましたが、その事もあってか妙に頭からカラスが消えません。「暖冬」なのか2月の初旬からあちこちでカラスの「カーア、カーア」と鳴く声が頻繁に聞こえてきました。 幼稚園の前の国道41号線の上には高速道路が上下2段になって走っています。その上の道路を支える橋脚が門の目の前に立っています。その橋脚の一番上に一羽のカラスがときには二羽のカラスが留まっていて、やはり「カーア、カーア」と大きな声で鳴いています。 読んだ本では、それはなわばり宣言のための鳴き方だそうです。カラスはおしどり夫婦だそうですから近くにもう巣を作っているのかもれません。 『カトリック教会のカテキズム』No.23 今回は 「主は・・・おとめマリアから生まれ」を考えます。 No487 「カトリック教会がマリアについて信じることは、キリストについて信じることに基づいていますが、また一方では、マリアについての教会の教えが、キリストへの教会の信仰を解明して行きます。」 続いて 「マリアについての教会の教え」が説明されています。 「神は一人の女性の自由な協力を望まれ」、その為に「旧約の時代を通して、マリアの使命は聖女たちの使命によって準備されていました」。女性の名はエバ、サラ、サムエルの母アンナ、デボラ、ルツ、ユディト、エステルの名があげられています。こうして「神の約束に対する長い待望の時期が終わり、時が満ちて新しい救いの営みがはじまります」。 大天使ガブリエルはお告げのときに、「恵まれたかた」(ルカ1・28)とマリアに挨拶しています。 |
■ No.40 2007年1・2月号 |
おめでとうございます クリスマスおめでとうございます。また新年おめでとうございます。 今年の教区年間テーマは「喜びと希望を」です。この事について今年も司教様の年頭の書簡が各自一部づつ持ち帰るに充分の枚数で来ています。守山教会でもミサの中か、あるいはミサ後に時間をとり「ゆっくり読み、分かち合い」たいと思っています。 ひとつの文章が心に残りました。 『わたしたちの教会にも、皆さんと力を合わせて取り組んでいかなければならないむずかしい課題があります。』 司教様の言葉ですけれども守山教会での僕の言葉でもあります。でも「喜びと希望を」の言葉を心に留め、頂いて日々重ねたいと思います。 今年もよろしくお願いします。 年末、新しく買い替えた車が来ます。車検登録は12月25日になるそうです。車種は紺色のビートル。 これに決めたのは訳があります。 小神学生の時毎週土曜日午後は作業とゆるしの秘跡を受ける日でした。聴罪司祭は神言会の老ドイツ人神父さま。彼は黒のビートルに乗って来ました。庭での作業中、ビートルの「バタ、バタ、バタ」というエンジン音が聞こえてくると作業は終わり、罪の告白の準備にむかいます。 罪を探すのも大変。そんな話を友達にして、「一度は乗りたいね」と言うと、話が進み友だちから「いい車が見つかったよ」と連絡があり、見に行き決まりでした。 『カトリック教会のカテキズム』No.22 今回先に進みます。『主は聖霊によって人となり、おとめマリアから生まれ』を考えて行きます。 No484 パウロは「時が満ちると、神はおん子をお遣かわしになり、女から生まれさせ」(ガラタ4-4)という表現を使って、イエスの誕生が約束されていた事、そのための準備の時間があった事、一人の女性が選ばれた事を教えています。 選ばれた女性がマリア様でした。マリア様のことは次回から学びます。 No512に「使徒信条がキリストの生涯に関して述べているのは、ただ受肉(受胎と誕生)と過越(受難、十字架刑、死、埋葬、死者のもとに下ったこと、復活、昇天)の神秘についてです。」とあります。確かに使徒信条を読み返すとナザレでの両親との生活や公生活については、明白には何も言ってはいません。イエスの誕生は神によって、そして聖霊によっての出来事でした。 |
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