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平政の守山教会ニュース
森のうた(2005年)

カトリック守山教会 聖堂の十字架と鐘
カトリック守山教会 聖堂の十字架と鐘(2008年12月撮影)


■ No.33 2005年11・12月号

中秋の名月

 9月18日(日)は満月の日でした。4階のお御堂の前に椅子とビールを置き、御聖体に背を向けて「中秋の名月」を楽しみました。邪魔する雲はなく、いつまでも真丸のお月様でした。そして心臓は○○ヘクトパスカル。

 この観月を思い立たせたのは吉永良正著「『パンセ』数学的思考」(みすず書房)という一冊の本でした。裏表紙には「ふだんは、モラリストやキリスト者としての面ばかり語られるパスカル。だがその思想は、徹頭徹尾、数学的思考をベースにしている。」と書いてあります。数学が解らない僕にも最後まで興味深く読めました。例えば著者のこんな言葉があります。「プランク長とプランク時間は、具体的には10のマイナス33乗センチメートルと10のマイナス44乗秒になります。」そしてその理論によって「パソコンや携帯を楽しむことが出来るのです。」、「宇宙のはじまりを知ることは物質の究極を知ることであり、逆もまた真です。」、「無限小の理解は無限大の理解と同じくらいむずかしい」など。

 パスカルの言葉 『宇宙はわたしを包み、わたしを呑み込む。思考(パンセ)によって、わたしは宇宙を包む。』

 お月様を見ながら百数十億年前に起きたと言われているビッグバンを想像し、またヒトゲノムの時間的、空間的履歴考え、ひと時を楽しく過ごしました。


『カトリック教会のカテキズム』No.15

 「神のひとり子、イエス・キリストを信じます。」を考えています。

 今回はイエスの称号(呼び名)を考えます。『イエスとは、ヘブライ語で「神は救う」という意味です。お告げのとき、天使ガブリエルはイエスにこの固有名詞を与えますが、それはイエスの身分と同時に使命をも表しています。』(430)そのイエスには次のような称号があります。キリスト、神のひとり子、主、メシア、ダビデの子、また御父である神はイエスを「わたしの愛する子」と呼ばれました。人の子、ほむべき者の子、インマヌエル

 『それらの中で「人の子」だけは別格のようである』なぜなら『イエス自身「人の子」という表現をしばしば用い、それも、自分自身にあてはめて用いている。』(田川健三)。

 マタイ福音書では「インマヌエル」が1章目にそして最終章28章の最後の句に使われています。



■ No.32 2005年9・10月号

仕事と労働

滞在先 トラピスト修道院 二年ぶりに函館トラピスト修道院での教区司祭の黙想会に参加しました。毎年教区司祭の黙想会は二つのグループに分かれて、八月最後の週と九月最後の週に行なわれます。四泊五日の日程です。一日目と最後の日は移動日ですから、なか三日が黙想の時間になります。修道者たちの時間割に合わせて一日を過ごします。しかしその他は時間がたっぷりありますから図書館に行き本を借ります。神学、哲学、霊的読み物、文学等たくさんの蔵書です。今年は「木について」の本を借りました。

 この本の中で法隆寺の修復に関わられた棟梁西岡常一さんの言葉が印象に残りました。「仕事というのは塔を建てるということに、あるいは金堂を建てるということに仕えることです。だから自分を捨てなければいけない。自分を捨ててはじめて仕事といえるのです。」「労働」と「仕事」は違いますといわれます。

 なるほど「仕事」は「ことにつかえる」の意味。「使命」は「いのちをつかう」の意味。 トラピストの修道者は365日、「Ora et Labora 祈れ、働け」を生活の基本にして日々を重ねます。「労働」と「仕事」の違いがどのように違うのか考えさせられました。そしてここの修道者の「仕事」は何だろうと考えました。結論は「祈ることと労働すること」の生活が彼らの「お仕事」だと言うことに落ち着きました。


『カトリック教会のカテキズム』No.14

 「神のひとり子、イエス・キリストを信じます。」を考えています。先回はイエスを身近に感じるためにロザリオの信心を考えました。今回も伝統的な信心の中に生きている「イエスを身近に感じる」祈りにふれたいと思います。それは「お告げの祈り」と「十字架の道行きの祈り」です。今では共同体での「道行きの祈り」は年に一回、四旬節の黙想会の時に行なう程度になりましたが、個人的には、あるいは巡礼においては大切な祈りだと思います。この祈りの中でイエス様の「犠牲」がだんだんと深められていきます。と同時に「ありがたさ」を頂きます。また「スタバト・マーテル」を歌いマリア様の心にもふれます。一方「お告げの祈り」は日々の祈り、しかも一日に三回祈りますから身近な祈りだと思います。神が人となられたことを、マリアさまにならって感謝します。



■ No.31 2005年7・8月号

石亀さぁーん

 一昨年のちょうど今頃6月の下旬でした。教会で石亀を飼う事になりました。甲長約20センチのメス、しかも前足の片方が半分ありませんでした。冬眠あけの活動開始の時期で車道を横切る途中に信者さんに見つかり教会に連れて来られたのでした。守山教会を囲む環境ではこんな事も起こります。それから一年間この石亀さんと付き合うことになりました。しばらくしてから3個の卵を産みました。それでメスだと判った次第ですけど、たぶん無精卵でいつまでたっても卵のままでした。

 約一年間、土曜、日曜は教会で信者さんたちにかわいがられ、月曜から金曜日は幼稚園の子どもたちと過ごしました。月曜日は僕の車に乗せられて共に通勤です。

 それからいろんな亀をHPで見ました。でも目の前の「石亀」さんにはどれも勝ち目はありませんでした。外来種の亀さんより愛嬌がありました。

 昨年の夏前、教会の庭に網で囲った亀さんの遊び場を造りました。頑丈に造ったつもりでしたが、地面と網の間からか、網を乗り越えてか分かりませんが逃げて居なくなりました。

 生き物を飼うと言う事は毎日いくらかの時間をその物に使うと言う事だと思います。そんな時間が慰めの時間になっていたとは、その相手がいなくなって気付くようです。

かめ

かめ2


『カトリック教会のカテキズム』No.13

 「神のひとり子、イエス・キリストを信じます。」を考えています。イエスがどんな人物であったか、もちろん聖書を読めば分かる事ですが、文字の読めない人に、そしてマリア様に対する信心とが重なりロザリオの祈りが愛唱されてきました。ロザリオの各神秘を暗唱し、祈り、黙想することで聖書の中に描かれたイエスの姿が鮮明になってきます。その祈りはイエスの誕生から聖霊降臨まで、そしてマリア様の天の元后と言う敬称まで続きます。極端な言い方をすれば「ロザリオ」の祈りを唱えることは「カトリック教会の信仰」を信じますと宣言しているのと同じだと思います。例えば「喜びの神秘、第一の神秘」は「聖母がお告げを受けた」事を黙想しますが、この事は聖母を「神の母」そしてイエスを「神のひとり子」と信じる心がなければ変な文書で終わります。



■ No.30 2005年5・6月号 

教皇ヨハネ・パウロ二世 逝去

 皆様ご存知の通りですが、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が現地時間4月2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)に逝去されました。享年84歳でした。そして次の教皇にはラッツィンガ-枢機卿(78歳)が選ばれ、「べネディクト十六世」と名乗られる事になりました。4月3日は日曜日でしたので10時のミサの前に教皇の逝去をお知らせするとともに、この日のミサをパパ様の為に捧る事にし共に祈りました。

 1981年2月23日、小雨の降る中教皇ヨハネ・パウロ二世は日本を訪問されました。そして26日までの日程で東京から広島、長崎へと旅をされました。日本到着の挨拶の中で「私は、平和の巡礼者として、皆さんへの友情と尊敬のメッセージをもってこの日本に来ました。」と言われました。離日の挨拶では「日本や世界中のマスコミの高度な技術と協力のおかげで、平和と人類のしあわせをねがう私の訴えは、世界中に届いた事でありましょう。深く感謝します。」と言われました。この二つの挨拶の中にある「平和」という言葉の中にパパ様が一番大事にされたお気持ちが表されていると思いました。そしてそのお気持ちは生涯変わりませんでした。

 教皇ヨハネ・パウロ二世の永遠の安息を祈ると共に、新しく教皇に選ばれたベネディクト十六世の為にも祈りましょう。


『カトリック教会のカテキズム』No.12

 「神のひとり子、イエス・キリストを信じます。」を考えています。前回末尾に、「幼少のイエス様の事はあまり分からないのです。」と書きました。新約聖書27文書が「正典」として成立する過程でそれとは区別された「新約聖書外典」(アポクリファ)があります。その中に「ヤコブ原福音書」、これはマリア様がヨゼフ様のもとで子を産むまでのこと。また「トマスによるイエスの幼児物語」、これはイエス様の幼年時代のこと等があります。これらは歴史のマリア様、イエス様を知るための史料にはなりえないと言われていますが、当時の読者には喜ばれ、多くの言葉に訳されました。書かれたのは2世紀の終わり頃。イエス様の生と死から150年以上経っています。関心はイエス様が5歳から12歳の間に行なった奇跡や神童ぶりに向けられ、イエス様を身近に理解しようとしました。



■ No.29 2005年3・4月号

ブルートレイン

 名古屋教区では司祭召命のために春休みを利用して「一日神学生の集い」を毎年行なってきました。小学生高学年と中学生が対象です。今年も3月24日に行なわれます。今年は聖週間が春休み中なので、聖木曜日のミサに侍者として奉仕します。

 僕も小学生の時侍者をしていました。そしてこれが司祭になろうと思うきっかけになりました。また先輩たちも皆中学生になると「小神学校」に入りました。僕も同じく「小神学校」に進みました。ただ僕の場合は長崎や福岡ではなく名古屋の「小神学校」に来ることになりました。今、教区センター、教区事務所として使われている建物がそれです。そこから南山へ通学したのです。年三回の長い休みには帰省することになりました。この時利用したのが「ブルートレイン」でした。

 南山中学受験のため、父親に付き添われて名古屋に来た時初めて乗りました。でも新大阪まで。新大阪からは新幹線に乗り換えて名古屋まで。たぶん割引と時間短縮の為に乗り換えたのだと思います。それから6年間「ブルートレイン」か「夜行列車(夜汽車)」を使い帰省しました。

 2月28日、寝台特急(愛称ブルートレイン)「あさかぜ」と「さくら」が3月のダイヤ改正で廃止が決まりました。このニュースを聞いた時、多くの中卒、高卒の青少年が九州から名古屋に就職して来た事に思いが行きました。そして何故か次の曲を歌っていました。

1.
とっても小さな つぶらな瞳を
曇らせて泣いている そんな子供達
祈りをこめて 今日も生きていく
そんな幼い子供を 誰かがみてほしい
2.
煙にくすむ 夕陽が落ちてから
油に汚れた身体に 着ける制服
とても疲れて重たく 見上げる先生の
力のこもったその手には 愛の白墨

ブルートレイン


『カトリック教会のカテキズム』No.11

 「神のひとり子、イエス・キリストを信じます。」を考えています。

 教会学校では、クリスマスを前にしてイエスの聖誕劇の練習が始まるのが普通の光景だと思います。その台本は「マタイ福音書」に書かれてある事と「ルカ福音書」に書かれてある事を合わせてだいたい作られています。

1. マリアへの天使のお告げ。
2. ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による人口調査。
3. マリアとヨゼフの旅。
4. 羊飼いへのお告げ。
5. エルサレムの宿屋の出来事と誕生。
6. 三人の博士たちの来訪。

 この続きに、エジプトへの避難を付け加える場合もあります。こうして時間の流れを創りながらイエスの誕生を学びます。しかし、マタイとルカの書いた福音書は細部において関心の向かうところが違いました。幼少のイエス様の事はあまり分からないのです。



■ No.28 2005年1・2月号

新年おめでとうございます

 皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 昨年は思いもよらぬ病にかかり皆さんに一方ならぬご心配をかけてしまいました。でも一番驚いているのは僕ではないかと思っています。健康には自信がありましたから。それで今この事について神様の御旨を推し量っているところです。一体何がおっしゃりたかったのかと。それに神様に代り皆さんから色々のアドバイスをいただいていますから、それも心に留め今年もいい年でしたと、振り返る事の出来る一年にしたいと思っています。

 守山教会に赴任してきて3年過ぎました。短い時間だったように思いますが、教会の子どもたちを見るとやはり月日の過ぎた事を実感します。1年間は季節の移り変わりにより時間の経過を身近に感じながら過ごす事が出来ますが、この1年間の積み重ねの厚みのある年月は確実に過ぎているのに何かしら漠然としています。具体的な事柄にしぼって振り返らなければピンときません。この3年あの事、この事と思い巡らしたくさんの不手際に反省させられます。新年を迎えて4年目に入ります。気を配りながらゆだねられた聖務に、また、仕事に励みたいと思います。

 パウロのテモテへの言葉(Ⅱテモテ1の5)

「わたしは、あなたのうちに宿っている
偽りのない信仰を思い起こしています」


『カトリック教会のカテキズム』No.10

 今回から「神のひとり子、イエス・キリストを信じます。」について考えていきます。(No.422)

 「カテケージス(要理教育)の中心はキリストである」と言われています。それは目に見えない神からのプレゼントである目に見える人、イエスを知ることから始まります。父はヨセフという名の大工で、母はマリアでした。約二千年前、最初のローマ皇帝アウグストウス支配下のユダヤ国ベツレヘムで生まれました。そして次の皇帝ティベリウスの時、ユダヤの総督ポンティオ・ピラトの命令によりエルサレムのゴルゴタの丘で十字架の刑に処せられました。十字架刑は帝国への反逆を企てた者を処刑するための刑でした。ヨセフス・フラヴィウスの著書『ユダヤ古事』、ローマの史家タキトゥスの著書『年代記』にこの十字架刑にされた人物について短く報告されています。



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