平政の
小牧教会だより 2018年
■ 2018年12月 管理者 |
先週、命の管理者は自分自身であると言いました。今日はこの管理者と言う言葉と、そこから一人のキリストを信じる者、自分を考えました。 パウロさんは「わたしたちはキリストに仕える者、神の決められた計画を委ねられた管理者である(コリント書)」、キリストに仕える者としての自分の生活を管理しなさいと励まします。 『仕える』の意味を、パウロさんの手紙のギリシャ語では奴隷と言う言葉含んでいます。その時代の奴隷は、いつ死ぬか分らない命を生きていました。ラテン語「ミニステル」に訳されるとその意味が変わりましたが、仕えるとの中身は変わりません。今の時代はまた変化して「ミニスタ―」。内容は元々の『仕える』を充分に含んでいます。 キリストに『仕える』者として自分を管理出来たらと思います。
YouTube: ジングルベル
YouTube: クリスマス・メドレー |
■ 2018年11月 『いのち』とは |
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2;7)聖書は人の起源をそう書いています。そして神の命の分有によって自分の命を確保しました。ここからが問題です。 『いのち』はいったい誰の物でしょう。天地創造の神を知らない人は『いのち』は自分の物と考えてしまいます。確かに肉体的な命はいつか塵に帰っていきます。はかないものです。生きているのは自分であり、あれこれ考えそして努力し、鍛えて生きています。それはそれで自分の人生ですから大事にします。しかしキリスト者はそれとは違う『いのち』信じています。神様からの『いのち』の事を。そこからその『いのち』と自分の『命』とどう違うのかと、考えなくてはいけません。 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(一コリント3;16)と聖パウロさんは教えます。自分の『命』が神様の『いのち』に結ばれていることを教えます。また、信仰宣言で「からだの復活、永遠のいのちを信じます。」と祈ります。ここでのいのちの意味は自分の『命』ではなく神様の『いのち』の事です。 父母の天地創造の神様への協力のもと一つの『命』が誕生します。その『命』は永遠の『いのち』に繋がるものです。『命』は自分のもではなく「預かりもの」ではないかと思います。管理者として良く管理し、磨かなくてはなりません。そして肉体的に「息」を引き取った時に決定的に『永遠のいのち』に結ばれると信じています。
YouTube: カラヤン指揮 モルダウ「我が祖国」より
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■ 2018年10月 台風の月 |
8月より9月の台風の数は少なかったですけど、上陸台風が二つ日本列島を縦断しました。21号と24号。21号9月4日上陸、近畿地方に大きな被害をもたらしました。その勢力は「非常に強い」と表現されています。 また、24号も「非常に強い」風台風でした。9月30日和歌山に上陸し、北海道東沖まで縦断しました。両台風は沖縄から東北を縦断し、雨・風被害をもたらしました。被害にあわれた方々にお見舞い申し上げます。また9月秋雨前線が日本付近に停滞し、曇りや雨のぐずぐずした天気が続きました。 そんな中、16日(日)午後16時から、名古屋教区の小神学生と大神学生の卒業生の同窓会が小牧教会でありました。年に2回、小牧教会に集まります。毎回の事ですが持ち寄りの料理と教会で料理好きの人が作ったおいしそうなおつまみで乾杯です。今回は8名が参加しました。 この集まりは僕が守山教会に居た時から続いて10年以上になります。毎回同じような話をして飽きずに集まっています。結局、飲むのが皆好きなんですね。4名は泊まって、次の朝車で帰りました。次の集まりは2019年4月の予定ですが、どうなるか?
YouTube: 主よみもとに André Rieu - Nearer, My God, to Thee (live in Amsterdam)
YouTube: MOZART Requiem - LACRIMOSA - Herbert von Karajan
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■ 2018年9月 8月の行事 |
8月は何かと多くの行事がありました。まずは、教区付の司祭の黙想会の一つが、北海道の渡島当別、トラピスト修道院であり参加しました。9月のグループは神言会の軽井沢の黙想の家です。 修道院では到着日と次の日が小雨の日よりでしたが、残りの日々は曇り、晴れの天気でした。野村司教様も、松浦司教様も、充分な散歩をされていました。熊の出没もあり僕の感想としてはそんなに歩かなくてもと思いました。今回は7名の参加者で例年より少なかったです。でも楽しい時間を過ごす事が出来ました。残念なことに1日だけ寝坊をしてミサに出れませんでした。寝すぎかなと。
平和旬間の企画、10日間の24時間聖体礼拝が担当の小教区で行われました。担当教会での開始のミサは19時から、出来るだけ参加しました。 なんといってもベトナムの青年たちの集まりが2回ありました。18日(土)、本番の16日(彼らの交流会の準備のため)。に集まりました。そして祈りの時間もあり、意気込みを感じました。結果、当日は五反城教会、多治見教会、豊橋教会からのベトナムの若者が集まりました。小牧教会のお御堂は満員。 小牧教会のベトナムの若者のリーダのフン君は、9月上旬に国に帰ります。皆で次の後継者も決めてくれました。 あと、色々。
YouTube: ジェットストリーム(夜間飛行)城達也
YouTube: Big Wednesday (1978) - Matt's Big Wave Scene (9/10) | Movieclips
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■ 2018年8月 敦賀の「カメ」さん |
7月「海の日」、小牧教会はサマーキャンプの日でした。今回も3回目の敦賀、水晶浜に行きました。浜辺とベースまでの距離は山に向って歩いて10分程。その道は左右に水田、その真中に山からの小川と車道があります。でも、水田の方には車道と違うもう一つの道があります。農業用の道路です。こちらを歩けば安全です。 その道を、海で楽しく遊んだ帰り、目の前に「カメ」さんが歩いていたそうです。 そしてその「カメ」さんは小牧教会にいます。しばらくして卵3個産んでいました。 教会では、玄関、左右の会議室、事務室のフローリングの改修工事が始まりました。会議室は机とパイプ椅子ですが、事務室は違います。小牧教会の諸々の資料、会計等のもの、そしてそれを納めるロッカー。これらの移動は力仕事です。定年退職の人には重労働ですが、そこに若者の協力がありました。感謝。
**************************************** 守山教会「森の歌」No.31 2005年7・8月号より転載 「石亀さぁーん」 一昨年のちょうど今頃6月の下旬でした。教会で石亀を飼う事になりました。甲長約20センチのメス、しかも前足の片方が半分ありませんでした。冬眠あけの活動開始の時期で車道を横切る途中に信者さんに見つかり教会に連れて来られたのでした。守山教会を囲む環境ではこんな事も起こります。それから一年間この石亀さんと付き合うことになりました。しばらくしてから3個の卵を産みました。それでメスだと判った次第ですけど、たぶん無精卵でいつまでたっても卵のままでした。 約一年間、土曜、日曜は教会で信者さんたちにかわいがられ、月曜から金曜日は幼稚園の子どもたちと過ごしました。月曜日は僕の車に乗せられて共に通勤です。 それからいろんな亀をホームページで見ました。でも目の前の「石亀」さんにはどれも勝ち目はありませんでした。外来種の亀さんより愛嬌がありました。 昨年の夏前、教会の庭に網で囲った亀さんの遊び場を造りました。頑丈に造ったつもりでしたが、地面と網の間からか、網を乗り越えてか分かりませんが逃げて居なくなりました。 生き物を飼うと言う事は毎日いくらかの時間をその物に使うと言う事だと思います。そんな時間が慰めの時間になっていたとは、その相手がいなくなって気付くようです。
YouTube: We Are the World 歌詞、日本語訳付き |
■ 2018年7月 「エルカナ―(ねたみの神)」 雅歌から |
旧約聖書「雅歌」の注解書を読みながら本文を読みました。フランシスコ会訳解説に「ヘブライ語本ではソロモンの歌の歌」であり、「数ある歌の中で最も美しい歌という最高級」の歌である説明し、また「若い男女が互いに求め合い、探し合い、ついに一つに結ばれるまでのことを描いています」と説明してあります。本文を文字どおり読めばそう解釈出来ます。この読み方を「自然的解釈」といいますが、一方キリスト教の古代の教父や中世の神秘家たちは「比喩的解釈」を選び色々の注解書を書いて来ています。 「雅歌」に登場する人は「花婿」「花嫁」「おとめたち」「兄弟たち」だけです。主に花婿と花嫁の会話の形での詩編になっています。神の名前は一度も出てきません。 「比喩的解釈」を採る僕の読んだ本は「花婿」をエジプトの国からイスラエルの民を導いた「神」、「花嫁」はその時救われたイスラエルの「民」と解釈しています。 出エジプト記でのシナイの契約がこの雅歌の根幹にあり、この目線で神とイスラエルの深い一致と絆があると言います。この「契約」が「花婿」と「花嫁」結び付けますが、イスラエルの民はその契約を忘れ他の神に仕えてしまいます。その時契約を交わした「神」は「民」を忘れることが出来ません。その神の思いを「エルカナ―(嫉妬)」の神とも訳されます。 「契約の神」を忘れた民はバビロンに流配、捕囚されました。「民」はバビロンで「契約の神」を思い起こします。今何故バビロンに居るのか考える機会を得ました。 新約聖書のヨネハ福音書ではその「エルカナ―(ねたみの神)」を「愛の神」と表現しています。「契約」を忘れた民を探すために「救い主(キリスト)」を遣わされました。そして神への契約破りにも関わらず、十字架の犠牲をとおして今度はキリストに繋がる(あるいは全ての)人を自分の元にどうしても戻って来て欲しいという思いが「愛の神」という言葉に置き換えられました。教会はあくまでも「許す神」「いつくしみの神」と信じて来ました。
YouTube: Verdi - Nabucco - Va Pensiero - Bis
YouTube: 「エルサレムよ、おまえを忘れるよりは」典礼聖歌28番
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■ 2018年6月 日々の重ね |
YouTube: キリエ 生きて行く事は日々の重ねであると思います。人は生活のリズムを仕事などに合わせて毎日を過ごします。その積み重ねがその人の人生になって行きます。また仕事など退職した人は別の世界を広げて新たな日々を過ごす事になります。主婦の方も同じだと思います。子育てが終わると自由な時間が以前より増します。そして新たな生活スタイルが広がっていきます。 ご夫婦の間の相互理解があれば二人の世界は豊かになって行くと思います。 教皇フランシスコの3つ言葉をまた思い出します。その言葉はコミュニケーションの基本であると思います。「いいですか?」「ありがとう」「ごめんなさい」 5月はマリア様の月でしたが、6月はご聖体の月、御心の月であります。日曜日に頂いたご聖体に生かされながら日々過ごす事が出来ますように。
でも、皆様とご聖体に支えられて日々の生活を過ごしています。 |
■ 2018年5月 「浦上五番崩れ」と「明治政府」 |
僕が洗礼を受けた教会は、浦上の信徒により1867年に潜伏生活から表舞台に登場しました。昨年2017年には、150周年の記念行事が盛大に行われました。一方、浦上では同年1867年にはいわゆる「浦上四番崩れ」と言われる出来事がありました。結果、翌年から浦上のキリシタン達は尾張藩以西の各藩に流刑の身に処されました。 明治政府が出来て「尊王」制のもと、現在までその根幹は脈々と続いていると感じます。そして今年2018年は明治政府創設150年にあたります。来年2019年には天皇の代替わり、2020年にはオリンピック。明治150年とカトリック復活150年とどのような重なりがあるのでしょうか。 「長崎五番崩れ」と言う言葉は「永見津平」が初めて使ったと言われています。しかし「浦上五番崩れ」と言う言葉に置き換えられて行きます。長崎への原爆投下を、しかも浦上の真上で炸裂したことを題材とした小説です。信仰と迫害を前提にして「原爆投下」を五番目の迫害ととらえる見方です。 しかし最近、異論が出ています。発端は永井隆の『長崎の鐘』1949年の中の「壕舎の客」に収められている「原爆合同葬弔辞」。後年、永井のその言葉は「浦上燔祭説」と言われます。是非『長崎の鐘』お読みください。 がしかし復興キリシタンの150年の時間と明治から150年の重なりに、仮に「浦上五番崩れ」と言う言葉が今も通用するとすれば、「憲法であるし、その前文と9条」を思う心がカトリック信者永井隆の心であろうかと思います。現憲法の発布は1947年です。
♪(音声ファイル) ア・タント・クエスタ「仮面の中のアリア」より
YouTube: あめのきさき カトリック聖歌 |
■ 2018年4月 Yesterday Today Tomorrow (昨日、今日、明日) |
『主の御復活おめでとうございます』 「小牧だより1月号」から考えました。それはイエス・キリストが弟子たちに教えた「主の祈り」です。 律法を大切にしていたファリザイ派の人々の祈りは「主は唯一であり、主のほかに神はない。心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、神を愛する事、また隣人を自分自身のように愛する事」(マルコ12:28-34参照)。しかし、彼らはその他に600以上の律法に従い生活していました。それが守れない人々は罪の中に居る人と見ていました。イエスもその中の一人と見られていました。(その律法を守れる人々は裕福な人々に限られたと思われます。) イエスはマルコ福音書の先の箇所で、最も重要な掟はと尋ねた人に「あなたは神の国から遠くない人である」と答えられました。 そして弟子たちは、ファリザイ派の人々が祈るような祈りではなく、私たちが祈る祈りを教えて下さい、と願いました。 その祈りは、私たちがミサの中で祈る「主の祈り」です。 その内容は6つの願いの文節になっています。後半の3つの願いは Yesterday Today Tomorrow (昨日、今日、明日)とは重なるようですが、少し順序が違います。 「パンを今日ください」 TODAY 今日、現在。 「人をゆるします」 YESTERDAY 昨日、過去。 「悪よりお救い下さい」 TOMORROW、未来。 「Yesterday Today Tomorrow」ではなく 「Today Yesterday Tomorrow」です。 現在のある所から未来に、しかし、未来に向う為には条件が『「人をゆるします」 YESTERDAY 昨日、過去』が必要と。なかなか困難な事柄です。 教皇フランシスコは、夫婦生活には3つの言葉が大事ですと話しました。 「いいですか?」「ありがとう」「ごめんなさい」の言葉。 その3つの言葉は「人をゆるします」につながる言葉であると思います。ミサの中で「主の祈り」を歌う時、イエスの教えて下さった祈りが心と言葉と行いと怠りの思いをかえりみ、「明日」に向う心になるように願いたいです。
YouTube: 少女がお金を恵んだらオーケストラの大演奏のサプライズ
YouTube: 映画『砂の器』 ピアノ協奏曲「宿命」 |
■ 2018年3月 年の黙想会が終わって |
指導司祭は神言会の暮林神父様でした。その日は四旬節第二主日で、第一朗読は創世記22章からアブラハムの物語「先祖アブラハムの捧げ物」の場面です。アブラハムと息子が神の指定された山に登る場面、そこには会話が無く黙々と登る姿がイメージされます。どれだけ辛い思いで父親は歩いたのか、と。 その後、アブラハムは移住地のイスラエルの地で先住民とのいさかいを避けながら生活しました。弟との辛い別れもありました。そして、自分のお墓の土地も買いました。彼の人生は? 僕たちも生きて行くうえで「何故」と、誰かに問いかける事があると思います。僕のその相手はアブラハムに声をかけた人。僕も「もういいです、お呼び下さい」と何回か思いました。僕には家庭がないからと、そこに逃げていたのではと反省しました。でも、僕の回りには血縁とは関係なくキリストを中において家庭があります。「家庭」はいつの間にか「家族」になるのではと。「ゴッドファーザー」に松浦司教が、で、何だか、小牧教会でだらだらと皆様に奉仕出来るような生き方をしています。感謝です。 ステファニー神父の写真が司祭館に入った所の左側に掲げてあります。何故なのか分かりません。 暮林神父様はアブラハムの22章で、その日に朗読されなかった場面も好きだと言われました。僕もそうです。22章を通して読まれることを薦めます。 肝心な事、アブラハムの心は神の声に開いていた事。イザークを殺める瞬間に天使の声を聴いたとあります。アブラハムは、どんな辛い場面においても神に向かう心はぶれなかった。そこがアブラハムの偉い所、と神父様は指摘されました。 「ぶれない心」見習うべきだと思いました。
YouTube: 花は咲く IL DIVO
YouTube: Jaqueline Du Pre - Jacqueline's Tears (Jacques Offenbach)
YouTube: 大提琴演奏家賈桂琳·杜普蕾演奏經典《殤》加長版
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■ 2018年2月 24時間聖体顕示式 |
毎月第2・4木曜日、19時より開式ミサから翌金曜日19時ミサ終了まで、「24時間聖体顕示式」を主税町記念聖堂で、昨年10月から行って来ています。世話役は私がやっています。ミサ、聖体賛美式には毎回三名のオルガニストが交替で奉仕してくださっています。 1月25日には夜半から雪が降り始め、次の日の朝には2センチ程の積雪となりました。それでも通勤前の人だと思われる方が何名か聖体訪問に来られました。幸いに雪はお昼までにほとんど解けてしまいましたので、15時からの聖体賛美式(ベネディクション)、19時からのミサには支障ありませんでした。 木曜日のミサには多い時で30名、金曜日のミサはちょっと少なく20名程です。 各小教区の正面祭壇の奥かその側面に聖ひつがあり、ご聖体が安置され、赤いランプが灯されているのが普通です。 時間を見つけてご聖体(イエス様)を訪問されることを薦めます。皆でお祈りする時とも、家でお祈りする時とも違う気持ちの中でお祈りが出来ます。また何処か旅をした時には目的地に教会があるかどうか調べ、あれば立ち寄るようにしてご聖体を訪問する事も薦めます。
YouTube: Confutatis (モーツアルトのレクエムの曲から)
YouTube: モーツァルト レクイエムより 「怒りの日」 Mozart:Requiem-Dies irae |
■ 2018年1月 新年おめでとうございます |
2018年1月1日 新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 元旦の第一朗読、今年も主なる神からモーゼを通して民に与えられた祝福の言葉を頂きたいと思います。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。 「A Gift と Today」を考えました。 ------------------------------
Yesterday is a history ------------------------------
Yesterday is gone ------------------------------ 『今日』を神様からのプレゼントと受け取ったAliseさん。しかし、マザー・テレサはもう一歩進んで『今日』は『始める日』と呼びかけました。 そこには「今日」と言う日の受け取り方が、「信仰」をどう表現するかの時代の差を感じます。それは「信仰」を個人の事と考えるか、となり人との関わりの中に考えるかの温度差では。 僕は Alise さんの上の言葉を前にこのページで照会しましたが、彼女の事を詳しく知りませんので礼を欠いたらすみません。 大阪教区補佐司教ミカエル 松浦悟郎司教、名古屋教区 司教着座式 (2015.6.13)
1. 教皇大使の話 * 「教皇はあなたに a gift を与えた」 、それは名古屋教区の5県頭文字。
A [愛知 Aichi] 続けて * 「あなたは、教区にいる 1200万人への福音宣使命が」
YouTube: Teru terubozu - Zecchino d'oro 1976 I edizione(粟国 淳)
YouTube: Boz Live 2004(2時間の演奏ライブ)
YouTube: The Fool On The Hill - Subtitulada al español - Paul Mccartney
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