平政の
小牧教会だより 2013年
■ 2013年11月 |
僕の兄は移民者
YouTube: ビルマの竪琴:旅愁・埴生の宿 僕の父は二人の子供を遠くに送り出しました。一人目はブラジルに、もう一人は名古屋に。二人とも事後承諾をせざる様な父の意向がそこにありました。 二人目は、父の思いがかなって小牧教会で働いています。 一人目は送り先の状況では生活できないと分かり独立し、父の思いとは違うパン作りの職人になり、サンパウロで生活しています。 僕は移住者、兄は移民者です。 で考えたい事。移住者も移民者も共に、行った地に根を下ろし、そこで生活の基盤を創りました。そのように思います。 一方、ブラジルでは「出稼ぎ(dekasegi)」がポルトガル語になりました。 日本の事情を見ると、今も「出稼ぎ」と言う言葉は活きていて、家族を養う手助けになっています。 名古屋港に立ち寄る外国船の乗組員たちは、何か月ぶりのミサに与り、勇気を貰うと言う。
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■ 2013年10月 |
「ブロック会議」報告
9月15日五反城教会で開催。今年の年間テーマと「信仰年」にあたっての小教区の取り組み報告が各小教区からありました。五反城教会の七種神父様からの報告は参考になりました。『あかしする信仰』の中に尾張キリシタン発祥の地「花正」村の文章を読んで、その地が五反城小教区の受け持つ地域にある事を改めて考えさせられたとの事。そして過去の宣教しかも一信徒が宣教活動した地を、そして他のキリシタン殉教者史跡の巡礼を計画したと。尾張地域の宣教はこの小教区から始まった事を意識しながらの巡礼にしたいとの事でした。 戦国の世織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を輩出した尾張地方はまだ比叡山、高野山、浄土宗、浄土真宗各宗派の教勢が及ばなかった隙間であったと観られていて、花村から始まった(1567)キリシタン宗派は清州にその根拠地を移し尾張地方に急激に信徒が増えました。この小牧を含む清州、一宮を中心とする尾張西部の農村部にそして美濃にまで教えが拡がりました。 がしかし、それは束の間の時間で秀吉の「バテレン追放令(1587)」、家康の「キリシタン禁止の通達(1612)」でキリシタン弾圧の嵐が全国、尾張にも及びました。多数の尾張・美濃のキリシタン人が捕縛また斬罪に処せられました。 もうご存知でしょうが小牧小教区地域内には犬山も含めてキリシタン殉教者の史跡がたくさんあります。今年の「年間テーマ」と「信仰年」は終わりますが、来年は「霊的なパン」を頂くためにこの地のキリシタン史跡の巡礼を小牧教会で計画したいと思います。
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■ 2013年9月 |
教区司祭黙想会
8月18日(日)のミサの中でお知らせの通り、19日(月)から24日(金)まで函館、北斗市(ほくとし)当別(とうべつ)トラピスト修道院にて教区司祭の年の黙想会に参加しました。 「祈りと労働」の精神で日々を生活する修道士たちと時間と空間を共有することで、僕の司祭への招命を考えました。また、広大な敷地の中で、その地の実りを食卓で頂いた時、夜空の星と満月の月を見た時、セミたちの泣き声を聞いている時、創世記1章を思い起こしました。 この被造世界は「良い」あるいは「美しい」と創造主である神は言われました。そしてつづけて結論として「神は自分が造ったすべての物を見た。そして見よ、はなはだ良かった」(創1:31)と。またミサの中の奉献の祈り、「神よ、あなたは万物の造り主。ここにそなえるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちの命の糧となるものです。」の祈りを深く思い返しました。 大自然のもたらす災害が死へ追い落とすという事を知っています。がしかし一方で、その自然界がもたらすあらゆる命への配慮に対する信頼(例えば四季折々の食物、草花等)と神様のあらゆるものに対する(僕の事も含めて)摂理とに、感謝の心を頂いた黙想会でありました。
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■ 2013年8月 |
はじめまして はじめまして。野村司教様から7月1日付で小牧教会への異動を命じられ、守山教会から赴任してまいりました平田政信です。これからよろしくお願いします。 異動に際しては、小牧教会の御婦人方に司祭館の片付けや掃除をしていただき、また男性の方々には、僕の荷物をお御堂から司祭館の一階、二階へ運び入れていただきました。感謝しています。 名古屋司教区では守山教会も小牧教会も同じ「城北ブロック」に属しているため、ブロック会議の集まりで小牧教会は何回も訪れていましたが、司祭館に入ったのは今回が初めてでした。犬山巡回教会でのミサ、銀行の名義変更等、とりあえず終わりました。これから市役所や郵便局その他、転居に関する手続きをしてこようと考えているところです。
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