■ 2015年1月 神の母聖マリア |
名古屋教区HP「福音のひびき」より 1月1日、元旦は教会典礼の上で豊かです。ご降誕の8日目(命名の日)、神の母聖マリアの祭日、そして世界平和の日でもあります。そして色々の計画を始める区切りの日でもあります。その意味で神の母聖マリアを祝う今日は大切な日です。 今日読まれる朗読箇所は第1朗読で「アーロンの祝福」第2朗読は「相続人とする祝福」が読まれます。そして福音書では神の祝福の証として救い主の誕生を読みます。 私達は神からの様々な祝福を頂いているはずですが、それとは気付かない内に日々を過ごしているのではないかと思います。 今日の福音19節「マリアはこれらのことをことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。」とマリア様の様子を伝えています。自分の身に起きた今日までのことを思い出されていたのかもしれませし、将来の事について不安の内に考えられたかもしれません。また33節では「不思議に思った」、50節「両親はイエズスが言われたことの意味がわからなかった」とあり、51節「母はこれらのことをことごとく心に留めていた」と書いています。ルカさんはこの2章でマリア様がどのような人であったのか私達に伝えたかったと思います。そこに見られるマリアは普通の母親のようです。 しかし、「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」(1章38節)とお答えなさった方です。神様への深い信頼がありました。マリア様は日々の出来事の本当の意味は分からなかったかもしれませんが、神の計らいを信じてその中で考え生きておられたと思います。 「キリストの母」か「神の母」かの称号を巡り議論がありました。431年「エフェゾ公会議」で「神の母」が称号として認められました。(小牧教会 平田政信)
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■世界市民的な移民女性=平田美津子という生き方
美津子は、「私は父の仕事の関係であちこち転勤ばかりして苦労したので、絶対に外交官とは結婚しないと決めていました。それなのに、政治家という最も家に寄り付かない人と結婚してしまった」と笑う。 「毎日朝早くうちを出て、子供が寝てから帰宅でしょ。子供とは日曜日の午前中しか会えないのよ。この時間だけは、家族揃って教会に行き、パダリアによってパンを買ってきて一緒にお昼を食べるの。そして、午後はもう出かける」と当時をふり返る。 子供は8人。「ずっとそんな生活でしたから、毎週生活費だけ置いていって、家のことや子供の教育は一手に私が引き受けました」。ただの〃良家のお嬢様〃ではない。稀に見るコスモポリタンな資質を持った母親だった。「生活は質素そのものでしたが、学費には投資しました。子供にはとにかく自分が好きなことをやらせました」という教育方針を貫いた。 長女のエレナがUSP哲学科在学時、有名なイビウナ事件が起きた。1968年10月、学生運動の中心的組織・全国学生連盟(UNE)の非合法総会がイビウナのある農地で秘密裏に開催されることをDOPSが嗅ぎ付け、一斉検挙した。その一人にエレナがいた。「父が保守系政治家でしたから、それへの反発もあったかもしれません」とエレナさんは学生運動に身を投じた当時をふり返る。 昔から平田進下議を良く知る一人で、出版記念会に出席していた山中イジドロさんは、「凄いエピソードがありますよ。娘を守ろうとする母親の気持ち、ここに極まれりという話ですよ」と次の話を語り始めた。 当時、進の親友ソドレは軍事政権から聖州知事(1967―71)に任命されていた。ソドレは「二世の女学生で捕まったのは珍しく、しかも親友の娘だと知ったソドレは、エレナを釈放してやろうかと進に言ってきたんです」。ところが進は「お前はアミーゴだが、それとこれは別問題だ。娘は自分で責任を負うべきだ。出す必要ない」と断ったという。日系の真面目さが良く現れている。 それを聞いて美津子は驚き、ソドレ知事に一人で直談判に行った。家事一辺倒で、当時まったくポ語は片言だった。たとえ娘が監獄を出ても、ブラジルに居たらいずれ捕まって4年半の刑務所暮らしだと言われた。それならフランスへ亡命・留学させようと思いつき、手立てを整えた。 そう山中が語るのを、微笑みながら聞いていた美津子は、「コンゴーニャス空港から飛行機に乗ったら警察に捕まるという情報があった。だからこっそりと長距離バスでブエノス・アイレスまで行かせ、フランス大使館に駆け込んで亡命させた。そこからパリ行きの飛行機に乗るように手配した」と付け加えた。 そしてソルボンヌ大学に留学し、そのまま大学教授になった。そこでの教え子が、今回の本を書いた優美だ。 コロニアの言論は当然のことながら基本的に日本より、右寄りだ。父はコロニアを代表する立場から保守派政治家となり、娘はブラジルを想って左派に傾倒した。しかし、どちらも自分に誠実で一途だった。想う〃国〃は違っても性格という点では実に良く似ている。 当時、日伯毎日新聞の中林俊彦社長や一百野勇吉編集長の子供も学生運動に関わり国外亡命した。臣道聯盟員の父を持つ保久原ジョルジも学生運動で逮捕された経験を経て伯字紙論説委員になった。日系産業組合専務の娘だった栢山良子など数え上げればきりがない。 当地で地位を築いた親、保守的な親に反発するかのように、ブラジル社会の問題を一途に考えた日系学生が運動に身を投じた時代だった。(つづく、敬称略、深沢正雪記者) 写真=1970年代、左から下本八郎州議、平田連邦下議、美津子さん、アブレウ・ソドレ聖州知事(下本八郎さん所蔵) |